生きる原動力11
そして次男も小学校へ。
三男だけ保育園です。年中の12月、私は園から呼び出しを受けました。
園長と担任、いつもと様子が違うのです。
落とし所としては、他機関へ発達相談へ行って欲しいと。薄々気づきはしていましたが、時間をかけたら何とかなることだろうと思ってはいましたが、先を越されました。福祉事務所へ、と言われましたが、ここで診断は受けてもらえませんし、私自身相談を求めてはいませんでしたので、園にきっちり話をするために療育センターへ行きました。
とてもサバサバして気さくな医師でした。三男はその間保育士とおもちゃで遊ばせてもらえ、親子共に通いが楽しみでした。長男でかかっておきたかったと思いました。
そして発達検査。主治医はかなり軽度で診断に迷う自閉スペクトラム症(ASD)だけど、と言われましたが、小学校前に療育を受けてスムーズに進学させたいと伝えて、療育の申し込みへ。
年長秋口から個別と集団療育を受けています。ペアレントトレーニングもあり正直大変ですが、家庭環境を少しでも変えたり子ども理解をするのに必要なこととして取り組みをしています。
生きる原動力⑩
退院するや否や、養生なく普通の生活、決して楽ではなかったですが、それしかなかったと当時の自分は思いました。
生活の安定や自分自身の将来のために、新しい仕事を始めました。おかげ様で今も続いています。
1歳前後から保育園に預けて、特に長男の時代は、保育園は早すぎないか?
もっと母の手が必要じゃないか?と言われたとき、
まさに私は母と同じことをしていたのではないか?
と思ったりもしました。
でも、周囲の人は、子どもはお母さんの子だけではない、色んな人にかかわってもらいながら育っていくものと言われてほっとしました。
もちろん、送り迎えは続けました。迎えの時は楽しみで仕方がなかったです。
どうしても仕事の都合で遅くなることもありましたが、一緒に車に乗り込むこと、
たくさんの荷物を持ち帰ることは決して苦痛ではなく楽しみの一つでした。
しかし、次男だけ違う園になってしまい、大変さはありましたが、先生方のきめ細かい対応や子どもへの多くの教育の機会を与えていただき、私には到底教え切れないほどの経験ができ、我が子とは思えないほどの力がつき、本当にありがたかったです。
やがて長男小学校へ。
戸惑いもありながら親子共に経験させていただいています。
そうこうするうちに、次男も年長に。年長の一月、園の先生から、卒園式に謝辞を依頼され、喜んで引き受けました。これまでお世話になり、何かでお返ししたいと感じたから、良いチャンスでした。
そして次男も小学校へ。
生きる原動力⑨
そして、2回目の里帰り。このころ主人も転職が決まり、今の県へ。初めての島暮らし。
本土にいるよりかは余程店が多くて、野菜も新鮮で安くて美味しい。だけど、地元ではないですし、夫婦が余程きっちりした生活基盤を持たないことには子どもの進路や自立の幅に限界を感じました。静かなまちでしたので、いざ雑踏のなかで順応できるかと。
私も主人もいずれ子ども達は雑踏にまみれながら周りと時としてぶつかり合いつつ、乗り越える力をつけて欲しいと思ったからです。ライバルのいない穏やかな人生も悪くはないですが、結局どこかで競争社会が待っていると思ったのです。
もちろん、島の方は気候のように穏やかな方ばかりで、過ごしやすかったです。
少しずつ私はカウンセラーの仕事をしながら、生活に慣れ、第三子の妊娠がわかりました。
私に3人の子どもが育てられるのか、不安もありつつ、産婦人科の先生の穏やかで明るい診察のおかげで妊娠生活を送ることができました。
しかし、2人の乳幼児を抱えての妊娠生活はかなり重労働です。次男はなかなか離乳もできず、可哀想ですが、母体や第三子のため、無理矢理終わりました。
妊娠中に主人の転職が決まり、今の地へ。実家の近くになったのに何故か不安でした。
転居。長男だけ保育園が決まりました。この生活のおかげで、今の生活があります。
そして三男誕生。
生きる原動力⑧
転職活動でダメもとで精神保健福祉士の仕事を探しました。やはり保育園に通っていても、近くに実家があってすぐに子供を見てもらえる環境がないとだめだといわれなかなか仕事が見つかりませんでした。ですが、何とか見つかりました。
ここから心理や福祉の世界がスタートしました。障害者の学校です。
初めて先生と言われる仕事で、先生と言われても振り向かない私。学校という職場も初めてで立ち振る舞いにも戸惑いながらも、優しい先生もいて、支えられながら過ごしていました。環境が良かったからか、気持ちも安定していたからか、第2子妊娠。正直戸惑いましたが、長男に兄弟ができることの楽しみや期待も出てきた頃でした。
妊娠の見通しは立てられるようになったのですが、蓄膿というマイナートラブル発生。産婦人科へ相談すると、妊婦には治療できない、責任が取れない。と言われ毎日鼻水と頭痛に悩まされる始末。当然寝不足が続き、その中で長男の育児と仕事は続きます。そして1か月が過ぎ、全く改善せず、周りの病院を当ってみても妊婦を理由に治療拒否。
結局、紹介状がなかったですが、夜に市民病院へ電話。すぐ来てくださいと言われ、期待せず行きました。すると、初めは内科で見てもらったのですが、内科の先生が当直でもない耳鼻科の先生へ連絡してくれて、急遽自宅から来てくれて、治療へ。入院したほうがいいよと言われたけど、子どもがいるから通院するといい、点滴をするために数日通いました。本当に楽になり、睡眠がとれ改善し、神のようでした。
そして、2回目の里帰り。このころ主人も転職が決まり、今の県へ。
生きる原動力⑦
そして、第1子妊娠。なかなか子宝に恵まれず焦っていましたが諦めた矢先でした。初めてのことがたくさんで、母子手帳を貰った日にお母さんと言われ、誰の事?と思ったのがつい最近のことのように思います。
また、その年には、これまで悩んでいた通信制大学編入学をした年でした。重なるものです。実習も予定していましたが1年先延ばしにしました。
今まで赤ん坊を触ったことのない私で、どこから何をしたらよいのか?の世界でした。里帰りも、少し自慢げな気持ちになってうれしかったです。出産は、恐怖が先行して微弱陣痛が続き、一日以上苦しみました。そして出産。とてもきれいな顔をした赤ん坊で驚きました。
それからまた住まいに戻り生活。心配で仕方がなかったですが、何とかなるものです。
長男の出産もおわり、里帰りして実習をすることができました。
そして、やはり生活が心配になり仕事探しへ。まだ早いんじゃないか?とか幼稚園に行くのが普通じゃないか?と方々で言われましたが、金銭面と併せて子どもとのかかわりが一人だと不安で、周りにSOSしながら社会に出たかったのです。逃げにも見えますが、事実です。
長男が1歳になる前に入園。初めての保育園です。
いざ子どもと離れるのは、寂しくもあり勝手な自分がいると葛藤していました。
またこちらが想像していたものより保育園は厳しく、こうすべきというものがあり、
迎えの時間も時間内であっても遅すぎますときつく言われる始末。鼻水が出てかわいそうと
言われ、よく見ると、冬でもトレーナーの下は何も着させられおらず、翌日また着させると
着させすぎですと叱られ、また鼻水が出ている始末。
当時の私は派遣でフルタイムの仕事をしていたので、
帰ると戦争です。ご飯の支度や洗濯、長男のお風呂入れ、おむつを時々変え、
そして試験勉強…。よく体がもったと思いました。
おかげさまで精神保健福祉士の試験に受かることができ、その数か月後派遣切り。
生きる原動力⑥
それから半年後に転職。事務と接客でした。
ここでは、周りの人に支えられて、人の温かみやありがたみを感じることが
できるようになったのです。
色々お叱りもありましたが、それも今の仕事や生きる原動力になっています。
最後は組織編制で、一人の従業員というよりも女の子という名前で扱われ
仕事をさせてもらえなかったことを理由に退職。
その後は短期の仕事を行い、結婚。
初めて県外で親元を離れて生活するようになりました。
包丁一つ持ったこともない私。
味噌汁だってどうやっていいのか、スーパーで買い物もしたことがなくて
100グラム90円と書いてあってもその意味が分からず、
なぜ、500円になるのか?思ったより買い物でたくさん買ってしまったと
勘違いする日々でした。それくらい何も知らない私だったのです。
そして、家のドアを出たらわからない世界です。
その中で、中古で譲ってもらった自転車で地図を見ながら行くハローワーク。
遠かったと思います。美容院やお店がどこにあるかすらわからず、身なりもかなり
小汚い感じだったのだと思います。ハローワークの前で警察官に職務質問を受けました。
「自転車の防犯のとこ、見せてね。あれ?どうして県外じゃん。ちょっと免許証か何か証明できるもの見せてよ」と言われ、免許証を見せて経緯を説明する始末。不審者と思われたようですが、ここは説明で納得してもらい、そのあとは世間話で終わりました。
県外を離れると、同じ日本でも言葉もわからず、適当に返事をしていたら話がかみ合わないことも多かったです。少しずつここは、聞き取れるようになりましたが。
そして、第1子妊娠。
足るを知る
私はまだまだ勉強不足だと思いますが、
足るを知ると言う言葉が好きです。
最近は何かと新しい物を手に入れ増やし、
容易く便利を求められる時代です。
しかし、それは自分にとって
身の丈にあう価値観や生活なんだろうかと
振り返ると、実はそうではなくて、
もう少し自分のハードルを下げても良いし、
逆に自分の再発見やもっているものから
できることを探すことの大切さ、
要は知恵を絞ったり、
温故知新につながることすらあるのです。
わかりやすい例だと、
お金がなくてどうするか。
だけどある程度の満足は譲れない、みたいな。
それこそ、お昼を節約したいけど、
食べない選択肢はないよね、みたいな。
そんな時こそ自分でパスタを作るとか、
おにぎらずの具は何が1番美味しいかとか、
そういえば、お湯と深い器かコップさえあれば、
汁物も飲めるとか。
色んな工夫から発掘、極論、腕がつくことにまで
発展します。
足るを知るから、知恵を絞り、時として
温故知新につながる。
考えることは無駄ではないと
ようやくこの年になり、気付きました。
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